OUR HIDDEN SPACE

心に刺さった愛する者(物)を全力で語る、私(たち)の隠された場所。

【ITSAY】”愛”よりも昔、”孤悲”のものがたり①

「”愛(あい)”よりも昔、”孤悲(こい)”のものがたり」

 

これは「君の名は」や「天気の子」で有名な、新海誠監督の「言の葉の庭」という短編映画のキャッチコピーです。

 

このキャッチコピーが、ITSAYの世界観を端的に表すのなら、最もしっくりくるなと思っていて。

 

私自身の考察メモには、

 

「愛し方がわからないテーと愛され方がわからないオーエウの大きな痛みを伴う成長の物語」

 

と書いたのですが、これでは言葉不足だな…と思い、考えを巡らせた結果辿り着いたのが、このキャッチコピーでした。

 

 

 

テーとオーエウが、互いを思う気持ちは、

 

「恋」と呼ぶには、あまりに幼く、青い。

 

「愛」と呼ぶには、あまりに自分勝手で、一人よがり。

 

「ITSAY」は「恋」でもなく、「愛」でもなく、それより前の、

 

「孤悲(こい)」を描いた作品なのだと。

 

そう考えると、緻密な伏線と、無駄な絵がなく、テーとオーエウの心の移ろいを完璧なまでに描き切った本作において、私が唯一「ご都合主義だな」と感じた点が、

 

決してそうではなく、おそらく本作の核の部分を表現するために必要な描き方だったのだ、と気づきました。

 

今回はその「気づき」について考察していきたいと思います。

 

 

 

本作において、私が唯一違和感を感じたのが、「バスとターンの描かれ方」でした。

 

あまりにも二人が大人で、物分かりの良い子として表現されていて、

 

テーとオーエウの心理描写が緻密なだけに、どうしても違和感が否めませんでした。

 

バスもターンも、もっとオーエウとテーに自分の気持ちをぶつけていいだろう、怒っていいだろう、と。

 

二人と同い年のバスとターンが、相手の幸せを願って、相手のために行動して、最終的に身を引いてしまうことが、どうしてもリアルに感じられませんでした。

 

でもそれは、テーとオーエウがメインである以上、バスとターンの話にあれ以上時間を割くことができなかったのだろう、いわゆる物語上の都合なのだろう、と解釈していました。

 

 

けれど、ITSAYが「恋」と「愛」よりも昔の、「孤悲(こい)」を描いたものがたりだと仮定するのならば。

 

バスとターンは、あの人物造形でなければならなかったのでないか、と考えるようになりました。

 

 

以下、

 

ITSAYが「孤悲(こい)」を描いた物語であること、

 

そして、テーとオーエウの「孤悲(こい)」を描くためにおそらく造形されたであろう、

 

バスとターンの描かれ方について、私なりに紐解いていきます。

 

 

※ネタバレを含みます。未視聴の方はご注意ください。

※あくまで私の個人的な解釈です。正解に辿り着くためではなく、作品を深く楽しむために紡ぐ文章であることをご理解いただけましたら幸いです。

 

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まず、この物語の主役であるテーとオーエウの性質について。

 

テーが青、オーエウが赤を好んでいることに象徴されるかのように、

 

二人はお互いを思いながらも、その思いの形も、表現方法も、また、物事に対する考え方や、処し方も正反対のように思えます。

 

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テーは賢く、理知的。そしてプライドが高い。

ただ、その根底には、あまりに完璧な兄を尊敬しつつも、心のどこかで羨む気持ちもあり、言葉にはできない(することができない)複雑な思いを抱えています。

 

テーは、そのプライドの高さから、負の感情や、自分の頭が理解できないことを決して言葉にしないし、することができない。

 

辛いとき、苦しいとき、彼なりの精一杯の表現方法であり、思いの発露であるのは「泣く」という行為。故にITSAYでは、テーが思い悩み、苦しみ、混乱し、「泣く」姿が多く描かれています。

 

けれども、彼の表現は「泣く」止まり。

 

「泣く」行為の先で、フン兄さんに自分の思いを吐露する場面までの彼は、

 

いわゆる「自己完結型」の人間です。

 

それが顕著なのが、母親から自分に向けられる思いの解釈。

 

3話でテーは、オーエウに、

 

「昔から俺は母さんの自慢の子じゃなかった。母さんは兄貴の自慢ばかり。」

 

と語っています。

 

実際に、店の客に兄を自慢する母に対して、テーが複雑な表情を浮かべる描写もあります。

 

そんなテーの「解釈」とは裏腹に、

 

テーの母は息子二人にきちんと平等に愛情を注いでいます。

 

それは、テーが一般入試を受けた時に、彼が「大学に受かったこと」に喜ぶ(「どこの大学」かではなく、テーの夢が叶うことを喜んでいる)描写や、入学手続きをするはずだった日に、部屋に飾られていたYシャツとネクタイ、そして手作りのメッセージから伺い知ることができます。

 

けれど、「自己完結型」のテーは、母が兄を語る言葉から、「自分は兄よりも愛されていない」と勝手に思い込み、それはやがて「自縄自縛」へと形を変えてしまうのです。

 

自分も兄のように、品行方正でなければならない、

母の自慢の息子でなければならない、

母の望む自分でいなければならない、

自分も母が誇りに思うような相手を恋人にしなければならない・・・、

 

自分で縄を引き寄せて、自分で自身を縛り付けてしまう。

 

そして、その中で彼なりに導き出した答えを体現していってしまう。

 

最たるそれが、「自分が大学入学を辞退することで、オーエウを合格させる」というあまりに切なく不器用な選択でした。

 

彼は自分の中で「これが最良の選択だ」と自己完結してしまいます。

 

オーエウの気持ちを聞くこともなく、

 

家族や友人に相談することもなく。

 

 

 

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一方のオーエウは、

 

情緒的且つ衝動的で、やや自己肯定感の低い人物として描かれているように感じます。

 

オーエウは、「自己完結型」のテーとは異なり、

 

何事も相手の意思を「確認」してから行動しようとします。

 

一つ前の記事にも書きましたが、テーとの関係においても、

 

「先に仕掛ける」のは常にオーエウです。

 

ですが、核心には決して触れません。

 

相手の思いを試すかのように、

 

あえて核心には触れない、けれども自分の思いをしっかりと忍ばせた語りかけをします(ちなみに私はこのオーエウの思いの表現の仕方がこの作品の素晴らしさの一つだと思っていますが、それはまた後日)。

 

 

この人物造形は他のシーンでも何度か表現されていて、

 

幼少期に勇健に指名された時は、言葉にせずとも表情でテーに、

 

「本当に僕がやっていいの?」と確認しているし、

 

3話でハンモックに揺られながら語り合うシーンでも、「分かっているはずだよ」、「本当にわからない?」、「お前はいつから?」という、

 

テーの心を揺さぶるような問いかけをすることで、彼の意思を確認しようとし、お互いの方向性を決めるような「答え」をテーから引っ張り出そうとします。

 

また、テーとの対比が色濃く描かれたのが、4話で両親に自分のことを話すシーン。

 

オーエウは、「僕のことを誇りに思っている?」と泣きながら両親に確認します。

 

オーエウは自分の気持ちに自覚的だし、自分の弱さを言葉にすること(人に見せること)もできる。

 

ただ、その弱さ(臆病さ)、自己肯定感の低さゆえに、

 

「確認」しないと不安で仕方ないし、傷つきたくないという気持ちが強いという一面もある。

 

 

また、母の下着を身につけ、それをSNSにあげるという、いわゆる「自傷行為」を、自分の中ではなくあえて周りも巻き込んでしてしまうという負の衝動性もある。

 

その引き金は常に、彼の繊細で自己愛に満ちた「情緒」であって、非常に不安定で、危うい印象を受けます。

 

テーが母からの愛を上手く解釈できていないのとは異なり、

 

オーエウは両親からの愛情を一心に受け、本人もそれを理解しているように見えるからこそ、その「危うさ」はより際立って感じられます。

 

 

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また、恋愛に対する処し方も、二人は正反対に感じます。

 

端的に表現すると、

 

テーは「相手を愛したい」、オーエウは「相手に愛されたい」という思いが強い。

 

これは、二人が幼少期にオーエウが「勇健」を演じることになった時も、

 

テー=教える側  オーエウ=教えられる側であったこと、

 

そして、

 

二人が再会し、仲直りする手段として、テーがオーエウに「中国語の勉強を見てやろうか?」と申し出るところにも通ずるところがあります。

 

 

テーは基本的に相手を大切にしたい、そして愛したい。

 

だから、ターンに対しても、本人いわく2年間も口説いているし、

 

彼女の思いを尊重して、受験が終わるまではその答えを「待つ」と伝えている。

 

ターンに対しては、彼女の歩幅に合わせて歩こうとしています。

 

二人が交わした唯一のキスも、結局はターンからしたこと。

 

また、何気なく見えてしまったターンの下着に動揺するものの、

 

それ以上のことは絶対にしない。相手のことを大切に思い「待つことができる」少年として描かれています。

 

一方のオーエウは、自分の思いをやんわり語ったり、態度に表すことはあっても、

 

最終的な答えは、必ず相手から言葉で示してほしいし、そうなるように仕向けています。

 

バスに対して自分に気があるかどうか試そうとするのも、テーに対して意味深い問いを繰り返すのも、傷つきたくない、という思いと共に「愛されたい」という思いが強いからでしょう。

 

 

 

3話で、テーの自宅で「勇健」を二人で見ている時も、意味ありげに、確固たる意思を持って、テーの足に先に触れるのはオーエウです。

 

これは、私の深読みかもしれませんが・・・、

 

一見同じように見えるお互いの太ももに触れ合う二人の手の動きも、

 

ほぼ同じ表情で同じ箇所に触れ続けているテーに対して、

 

オーエウは視線がころころ変わり、心なしか色んな意味で「核心」に迫ろうと、

 

うちへうちへ手をわずかながら移動させているように見えます。

 

オーエウは先に誘いはするものの、その先は相手に自分の思うように、強く強く引っ張っていってほしいと思っている。そして、愛されたい。

 

 

3話ラストでも、「まだ眠くない」と言い張るテーに、

 

自分の思いを忍ばせながら「じゃあ、どうする?」と聞く。(シャワーを浴びた後という表現があるから、この問いにはものすごく効力がある。)

 

4話のキスの後も、自分たちの関係を「これから、どうする?」とテーに問いかける。

 

オーエウは、自分がこうしたい、こうされたい、という願望を決して伝えようとしません。

 

あくまで、相手が自分が欲しい「答え」を口にすることを望み、

 

そうなるように自分の思いを忍ばせた問いかけをしています。

 

 

そして、相手が望む答えを出さない(出せない)ことを察すると、

 

 

自分を傷つけまいと、それ以上先には進まず、時にその場から逃げ出します(4話のキスシーンの後)。

 

 

テーは、今まで相手を大切に思うからこそ、相手の歩幅に合わせて歩いていた自分が、

 

オーエウに対しては、嫉妬心や性的衝動から自分をコントロールできなくなってしまうことに大いに戸惑うし、中々受け入れることができない。

 

 

それは彼にとっては、恐怖を感じるレベルのもので、ただただ泣くことしかできない。

 

それだけでなく、「兄のようでなければならない」、「兄のようでなければ、自分は母から愛されない」という勝手な思い込みが、彼のオーエウに対する感情を阻んでいきます。

 

 

オーエウは自分の気持ちに自覚的だからこそ、テーに与えて欲しい「答え」は一つしかなく、

 

その「答え」に執着するあまり、

 

海の中でのキスのあと、

 

その「答え」を決して口にしないテーを理解できず、待つことも出来ず、「こんなの嫌だ。お願い、お願いだから・・・」と一度は泣いて縋るものの、

 

「お願いだから・・・」のその先、一番重要な部分を言葉にすることができません。

 

そして、「そんな気持ちなら要らない」とばかりに、

 

「なら、今日から消しなよ。」、「もう友達でも何でもない」と言い放ち、

 

テーを置いて、去っていきます。

 

まるで、あの日置き去りにされた自分の気持ちをテーになぞらせるかのように。

 

 

「幼さ」故に、心を通わせながらも、その思いを上手く表現できなかった二人。

 

 

海の中でのキスの後、その「幼さ」が牙を向き、

 

互いへの思いを「孤独」に「悲しむ」ことしかできなくなり、

 

身動きが取れなくなってしまいます。

 

 

②に続きます。